母親

実は今年の成人式の後に12年ぶりに母親に会ってた。会うその日までは言いたいこともたくさん考えてたけど、結局は母親の近況を聞いて自分の近況を話しただけだった。顔を合わせると言いにくくなるのは遺伝なのか。その日会うまでは悲しいことに、12年も経っていたから顔もぼんやりとしか思い浮かばなかった。大病を患ってかなり痩せ細っていたけど、一目で母親だとわかった。親子ってそんなもんなのかもね。言いたいことはお互いにたくさんあったはずだけど、ご飯を食べてほんの二時間程度話しただけ。
  次は社会人になってから会いたいと言って別れた。色々思うところもあってお互いにどう接していいのかわからなかったと思う。たぶん自責もあるだろうし、今度会ったときは自分の方から抱き締めて、産んでくれたことに感謝し続けてる気持ちを伝えたい。物心ついてから居なくなるまでの一緒に過ごした時間は短くて、記憶も薄いけどそれでも一緒にいられた時は本当に楽しかったから。「母親がいない」ことが辛い時期もあったけど、そのお陰で人に対する思いやりの大切さも学べたから結果としては良かった。綺麗な上澄みじゃなくて、時間をかけて奥底に溜まった純粋な気持ち。

半生

「育てる自信がない」という理由で彼女は僕らを手放しました。それ以来、自分のことを「手の負えないほどの子」「欠陥品」と思い込み、その意識が抜けないまま父親とその父母(祖父祖母)に一家の長男として育ててもらいました。弟は母親のそばから離れるとよく泣いていたため、僕は「僕がしっかりしないと」という想いで生きてきました。僕が泣けば父親たちが心配する。母方の家庭とのいざこざもあり、それに疲弊している父親を目の当たりにしていたので「絶対に心配をかけちゃいけない、泣くのは悪いことだ」とも思い込んでいました。その頃から親の顔色をうかがって行動するようになり、それは後に神経質へと変わりました。色々あって母方の家や父方の家の間を行ったり来たり振り回され、その頃の記憶は順番もわからず断片的にしかなかったです。それ故に当時大好きだったはずのアニメも、見ていたはずなのに内容はほとんど覚えていないどころか主題歌程度しかわからず、幼児期をほぼアニメとともに過ごしたはずなのにその記憶がありません。

  小学校に行き始めた僕は同年代の子とも話のズレを感じ、周りの子達が昔見ていたアニメの話を楽しそうにしているのを愛想笑いしながら見ているだけでした。時には、覚えてもいないのに「あー知ってるよ」などと言い、ごまかしていました。僕が頻繁に嘘をつくようになったのもこの頃からです。そうやってごまかすと、僕に興味を持ってくれるので、それが嬉しくて嘘をつき続けていました。小学校は僕にとって大切だったものが無いというなにか空虚なものを感じながら過ごした不思議な時期でした。もちろん話題も懐かしむことだけじゃなくて、小学生当時見ていたアニメの話もそれ以外の話もしていたので着いていけました。小学四年生からは進学塾にかよい始めたので、当時最盛期だった夕方アニメも見れなくなり、そのあとのバラエティ枠もほぼ見れませんでした。周りの子とはどんどん距離が離れ、中学に上がった頃は塾にかよう前よりも友達の数は減っていました。

  中学一年の多感な時期、クラスに好きな子ができました。Nちゃんとします。Nちゃんとは小学校も同じで、話したことはないものの気になる存在ではありました。昼休み、男子が外に遊びにいっている間教室は女子しかいないのが僕の通った中学では普通の光景でした。ある日の昼休みに体調を崩して保健室に行っていた僕はあまりの体調の悪さに早退する意思を保健室の先生に告げ、鞄を取りに教室に向かいました、教室に入る直前Nちゃんの楽しそうな声で「⚪⚪君は笑い方も笑顔も気持ち悪いし、なんか嫌だ~笑」と聞こえてきました。⚪⚪君とは僕のことです。それに同調するように周りの女子も有ること無いこと言いながら盛り上がっていました。「自分が思っていた以上に見た目が酷いんだ」と思い、塞ぎ込み卑屈になりました。この頃から女性が怖くなり、祖母以外の女性とは目も合わせられなくなりました。そのせいか祖母には強く当たってしまっていたと思います。それは今でも思い出すと申し訳なさで苦しくなります。高校二年になるまでずっと人前で笑えない笑わない卑屈な生活をしました。
  転機としては高校二年になった頃mixiで同じ高校の子達と友達になり、それからクラスに馴染めるようになりました。逃げるように男子校に進学した僕は高校一年のクラスは女子のようにグループができたり陰口が聞こえてくるようなクラスでした。その一年間ずっと誰とも口を利かずに過ごしました。二年生の頃はクラス全員友達と言っても過言ではないほどになり、自分でもビックリするほど明るいキャラクターになりました。そのまま三年卒業まで高校生活は順調に進んでいました。
  大学に進学しはじめると、あの楽しかった高校生活とは打って変わって、表面上だけの交遊関係、悪く言うならば利害関係で繋がるような景色が広がっていました。長期欠席していた人がテスト前にノートを貸してくれとせがんできたり、テスト中にカンニングは当たり前のような風潮でした。そんな環境に身を置いている内に段々嫌気が射してきました。カンニングするような人ほど利害関係の顔が広いしよく単位が取れるのに、真面目に授業を受けている人の方が単位を落とすというのがたまらなく悔しく、馬鹿らしくなってきました。そのうち僕は「行ってきます」と言って授業には出ず、川原や町中を散歩したりしてサボり倒しました。その結果ひとつまみほどの単位しかとれず、四年で卒業するのには難しい状況になっていました。その頃からアルバイトを始めました。学校以外で気分を晴らせる場所はないかと探した結果です。アルバイトをはじめて二ヶ月でやめました。その理由は、失敗すると突き飛ばされたり、聞くに耐えない暴言を吐かれるからです。それも筋が通ってればいいものの、失敗させようとしているような理不尽なものばかりでした。そのアルバイトは夜1時に帰宅するような勤務時間で、家族が寝たあと、突き飛ばされてできたアザや傷を一人で手当てしてそれから泣くのを我慢して寝ました。
アルバイトをやめた理由は、僕を大事に育ててくれた家族のために、僕のために、就職して家を出ていくまではできるだけ長く一緒にいたいという意味もありました。そのため、自宅から近く、21:00に終わるドラッグストアでアルバイトとして働き始めました。接客業なので、お客さんと話をしたり、明るく振る舞うことがどこか高校生活を思い出し、楽しく働けていました。しかし、働きはじめた数日後に、祖父が脳幹出血で倒れました。晩御飯は父、弟、祖父、祖母と一緒に食べ、「おやすみ」と言ってから寝床に就くのが日課でした。その半年後に祖父は亡くなり、その通夜、葬式でも僕は涙をこらえました。父親と祖母が泣いていたからです。僕まで泣いてしまうとダメになってしまう気がしたからです。祖父は学校から帰ってきた僕と弟にお昼ご飯を作ってくれたり、塾の送り迎えをしてくれたり、もう一人の父親のように接してくれました。それだけにショックは大きく、それからはアルバイトに限らず、学校でもうつむきがちで、なにもかも楽しくなくなりました。高校の時に始めたギターも弾けず、音楽を聴くことも苦痛になっていました。






  ここが今からちょうど一年前です。
そのあと一年間やる気も出せず大学の単位もとれず、アルバイトも苦痛でしかなく、ただゴミのように生きていました。すべてにおいて自信がなく、自尊心もほぼ0でした。親にはひたすら申し訳ないと想い続け、生きているのが無駄だという黒い感情しかなかったと思います。何よりも劣っていて人間として最底辺だと思い込み疑いませんでした。

  とうとう死ぬことしか考えられなくなった僕は学校の帰りに、線路ばかり見つめていました。気力もなく足元もふらふらしていたので本当に危なかったと思います。
  そんなある日父親に「学校やめたい」とその一言だけ言いました。すると、帰ってきたのは「大学を卒業することは確実に自信になる、何年かかってもいいから卒業しなさい」という言葉でした。普通の人から見ればゴミが親に甘えているような感じかもしれませんが、僕はこの言葉に救われました。これが3週間前の出来事です。









それからは心療内科にかよい、少しやる気のでる薬をもらい飲んでいます。
未だに女性と目を会わせたり話をしたりするのは本当に苦手で、人の視線も凄く気になります。話すときはテンパってしまって何をいってるか自分でもわからなくなったり、言葉の組み立てが苦手です。
  それを打ち明けると、
「それでもいいんじゃない?気にすること無いよどうせ自分の人生には関係ない人ばかりだし」といってくれるひとに巡り会えたのが大きいです。「それでも私は大丈夫」といってくれるひとにも出会えました。その言葉を聞いて涙が出るほど嬉しかったです。十数年ぶりに泣きました。泣いてもいいんだということにも気づけました。そう言って貰える人たちのことは本当に大切にしようと思っています。そういってくれる人たちに尽くしたい僕の人生です。

15:02

もうどこへ行っても本が読めなくなってしまった。騒音は問題ではない、自分の気持ちがもう、読書を受け付けなくなっていた。電車が線路の継ぎ目を跳ねる規則正しいリズムの中でも、絶対的な無音を貫く誰もいない図書館の中でも本が読めなくなった。読めなくなってしまった。ピンチの時に駆け込める唯一の世界への扉が閉ざされた気分だ。